2021/11/28

今日の音楽はClean BanditのSymphony feat.Zara Larson

最近はアウシュビッツ関係の本を読んでいる。この前図書館で借りた本はナチスもう一つの大罪「安楽死」とドイツ精神医学 小俣和一郎著。

アウシュビッツと聞くとユダヤ人のジェノサイドというイメージしかなかったのだが、読んでみるといやーそれだけじゃないんだね。アーリヤ人だろうが、同性愛者、精神障害者、ロマ、労働忌避者等つまりナチスドイツにとって「生きる価値の無い」人とみなされると殺されるのだ。津久井やまゆり園の事件を思い出す。障害者を生かすのには莫大な金がかかる。健常者に負担がかかるのはおかしいって言うところは共通している。

さて、ここでナチスドイツやレイシストを非難するつもりは私には無い。なぜなら私自身も差別する心があるからだ。時代と場所が違えば私は殺されていただろう。なんてったって精神障害者だから。それでも私は思う。役に立たない自分は早く死んだ方が良い、と。私が自身を裁いている。

価値とか役に立つとか、他人や自身をそのモノサシではかること。悲しいことに私は無意識にやっている。それも自身に対して。そして他者に対しても。これは環境によって刷り込まれた思想なのか、そうじゃないのかは別にどうでもよくて、自覚できていることが大事だと思う。私はレイシストであるという自覚。自己に対しても他者に対しても、差別をして(勝手に比べて)落ち込んだり、自信をもったりしている。

オールクリーンな人間であれって言うわけでは無い。ただ自分が悪い人間の可能性があるっていう戒めを持っていたいと思う。と、同時に良くありたいとも思う。自身をダメな人間と裁いても全然良い事ないのだ。だってさ、私はずーっと自分のことをクソだと病的に思ってきた。みんなみたいに働けなくて貧乏な自分はダメな人間だって。ほかの人から見たらなんて自罰的な人なんだろうって思われるかも。

本当は良いも悪いも無いのかもしれない。ある方面から見たら英雄でも別の方面から見たら独裁者かもしれないし。他者と己を比べるというのはある意味で社会性があると言い換えることができると思う。

何が書きたいのか分からなくなっちゃった。