2021/12/5

以下、10/23日の朝日新聞の写し

「私は」ではなく

キーワードとなるのが、落語が肯定する「業」や、親鸞の教えにある「他力」だと中島(武志)さんはみる。自分を超えた何らかの力が働くことがある。「人知を超えた行為に、『利他』が宿る構造こそが重要なんです」

古い言語にも、「利他」の豊饒さについてのヒントがある。中島さんはヒンディー語の「与格構文」を例に挙げる。「『私は』の主格のほかに、『私に』の与格があり、自分の意思の外部によってなされることについては与格を使います」

「私はうれしい」は与格を使うと、「私にうれしさがとどまっている」となる。「うれしいという感情は私が意思でコントロールしているものではありません」と中島さん。「私はあなたを愛している」には、「私にあなたへの愛がやって来てとどまっている」という言い方もある。

國分(功一郎)さんの著書『中動態の世界』で考察される「中動態)も、「与格」に近い概念だ。能動、受動だけではない、人間主体のあり方をとらえ直す試みだという。

中島さんは「『主格』や『能動態』で世界を語れると思ったのが近代だったのではないでしょうか。『与格』や『中動態』が示しているのは、人間が『うつわ』であるという感覚です。絶対的な主体が存在するのではなくて、私に何かがとどまっている。この人間観はすごく重要じゃないかと思っています」と話す

以上

私がこの記事でひっかかったのは「私にうれしさがとどまっている」という与格構文。与格という言葉自体初めて知ったけど、これが今の私にとってしっくりくる文体なのだ。あくまで人間はやってくるものの「うつわ」である、という表しかたを気に入った。なんか私のいきなりくる希死念慮もそのように扱えばよいのではないだろうかって思った。私に私で無いものが漂う。國分さんの中動態の世界も読んでみたいし、中島さんの思いがけず利他も読んでみたい。