2022/1/3

親戚の家を2軒伺うイベント

年に2回しか会わない

嬉しい気持ちの後に寂しい気持ちになる。我々は老い、死んでゆく運命に泣く。変わらないで。何もかもが惜しい。うまく飲み込めないです、こんな感情。

布団に入れば少し気持ちが休まるかな?と思ったけど、そんなこと無かった。普通に悲しいまんま。人のいた気配の廃屋。遠くにある山。干されっぱなしの洗濯物。全部悲しい。

疲れた。

2021/12/28

「殺してやる」と「殺してほしい」と思っている。自殺するか、しないかで迷っている。馴染めない。私はこの世にノーサンキューと言うことが多い。動悸がする。誰よりも意味に拘る。生きて死ぬことの意味。そんなもの無いのに、生きて死ぬなんて!

何にも考えないで生きて死ぬのもアリだと思う。おれは自分のことを白痴だと思う。

白痴は人を殺すか?

YESだ。答えはYES。

衝動のままに生きる白痴だ、おれは。

なんもかんもグチャグチャにしてやりたい衝動。馴染めないなら場を壊すか己を壊すかしかないのだ。お前が死ぬか、おれが死ぬか、どちらかだ。でも分かっている。祝福されていないのはおれの方だ。俺が壊れるしかない。戦争は無くならない。

飯を食いながらずっと「殺してやる」と思っていた。なんなんだ、これは。生活の場を見ると恐ろしくなる。アパートやマンションの窓からもれる灯りを見て陰鬱な気分になる。この灯りの数ほど人間の営みがあるとぞっとする。

おれは恐れている。何に対してかは分からない。居心地が悪くて、恐ろしくて、布団から出られない。

感情よ、どうか私を訪れないで。私は、底の浅い容れ物なのです。すぐに溢れてしまうのです。あなたの重さで壊れてしまうのです。

死ぬのが怖いので延命処置としてたくさん本を買っている。それすらも読めない精神状態が続いている。まあ、仕方ないよね。本は逃げないから大丈夫。生きている限りいつでも読める。これぞ延命読書。

2021/12/24

希死念慮がすごくて動けない。昨日はなべさんと電話した。意識があると死にたくなって困る。仕事中、死ぬか死ぬまいかずっと考えていた。死にたくねえんだけど、死んだ方がいいとも思う。遅かれ早かれみんな死ぬ。こんなに明るく話せるのに頭の中は死でいっぱい。気がつくと唸り声をあげて身をよじっている。脳に毒薬が入っている。数年前に死んだ友達を思い出す。私もああやって死のうと思った。

喋らなくていいから、誰か私の横にいて。もっと言うなら手を握っていて。温かいコーヒーを一緒に飲んで。

暖かい春に海へ行ってから死のうと思った。でも希死念慮が酷すぎて今すぐ死んでもいいとも思った。死とは概念だ。人間は概念的な生き物だ。うんざりだ。ひどく暴力的な気分だ。間違えても自分は善良な人間だと思うなよ。ちょっとした偶然で我々は加害者にも被害者にもなり得るんだぞ。

死ぬ日を決めても今、楽にならない。なんの慰みにもならない。死と苦しみって関係ないのかな?死はただ死であって、それだけなのかもしれない。

2021/12/16

少しだけ抑うつ状態から抜け出せた気がする。Twitterで読んだかもだけど、寒い国はやはり厳しい寒さゆえに冬はメンタルを崩す人も少なくないらしく、皆が己の健康に注意を払う季節らしい。私はオールシーズン抑うつ状態だが、やはり冬は余計に落ち込む。運動不足や日照時間の少なさが抑うつに拍車をかける。

 

話は変わります。シャーマンの話です。というより仮説の話?与格の話を先日のブログで書いたが、「わたし」が主格ではなく「感情」が主格になっていることにビックリした。「わたし」は「感情」のうつわであるという考え方。その考えでいくと、人間の肉体というものの在り方、捉え方が変わる。「わたし」が怒っているのではなく、「怒り」がわたしにとどまっている。「怒り」が「わたし」を通して現わされている。と捉えられる。この場合「怒り」は誰のものなのか?多分誰のものとも分からない。ただの怒り。全世界の怒りの一部だと思う。それをたまたまあなたが現しているのだと思った(仮説)。誰でもないもの、(もしくは誰かの)感情を現すってシャーマンじゃね?ウチら人間って全員シャーマンなの?

 

私は最近こう思う。私が死にたいと言うとき、「かつて(もしくは今)死にたくなる程に辛い思いをしたものが私にとどまっている」状態なのだと思う。自分というものは単一ではないのだ、自分という存在はそんなに確実なものではないのだ。あんた、誰?

 

シャーマンであり、役者のようだ。誰かが言ってたじゃないか。シェイクスピアだ。「この世は舞台、人はみな役者だ」

2021/12/7

急に死にたくなる。何もかもを否定していなくなりたいと思う。拷問を受けた人が「いっそ殺してくれ」と叫ぶところを思い出す。この世はでっかいクソだまり。すくなくとも私にとっては耐えがたい場所である。労働の時間以外はほぼ寝ている。意識があるのが辛いから。なんどもなんども生を肯定しようともがいてきた。何の意味もなかった。ただ生きている時間が延びただけだった。なんどもなんども死のうとした。恐ろしくてできなかった。今は冷静に死にたいと思っている。何かがあったわけではなく、なんとなく、「ああ、死のう」というだけ。違和感。ここに在ることへの違和感。多分どこへ行っても死にたくなる自信がある。なんの意欲もわかないし、ただ肉が動いているだけなんだよ。ばかばかしくなっちゃった。我々は一体何をしているのだろう?いや、我々ではない。わたしだ。わたしは一体なんだったのだろう。別に何でもいい。生まれたから生きて、死にたくなったから死ぬだけだ。みんな各々の仕事(労働ではない)をしているだけだ。与えられた役を全うしているだけだ。

死を思って、やっと今を生きられる感じがする。大丈夫、終わりはあるんだからって。遺書なんか残すものかと思う。言葉は祝福であり、呪いでもあるからね。わたしの死はただの死だ。

わたしは死ぬのかあ〜。へえ。ドキドキしてきちゃった。嫌だな。でも生き続けるほうが嫌だな。取捨選択だね。疲れてしまった。

2021/12/5

以下、10/23日の朝日新聞の写し

「私は」ではなく

キーワードとなるのが、落語が肯定する「業」や、親鸞の教えにある「他力」だと中島(武志)さんはみる。自分を超えた何らかの力が働くことがある。「人知を超えた行為に、『利他』が宿る構造こそが重要なんです」

古い言語にも、「利他」の豊饒さについてのヒントがある。中島さんはヒンディー語の「与格構文」を例に挙げる。「『私は』の主格のほかに、『私に』の与格があり、自分の意思の外部によってなされることについては与格を使います」

「私はうれしい」は与格を使うと、「私にうれしさがとどまっている」となる。「うれしいという感情は私が意思でコントロールしているものではありません」と中島さん。「私はあなたを愛している」には、「私にあなたへの愛がやって来てとどまっている」という言い方もある。

國分(功一郎)さんの著書『中動態の世界』で考察される「中動態)も、「与格」に近い概念だ。能動、受動だけではない、人間主体のあり方をとらえ直す試みだという。

中島さんは「『主格』や『能動態』で世界を語れると思ったのが近代だったのではないでしょうか。『与格』や『中動態』が示しているのは、人間が『うつわ』であるという感覚です。絶対的な主体が存在するのではなくて、私に何かがとどまっている。この人間観はすごく重要じゃないかと思っています」と話す

以上

私がこの記事でひっかかったのは「私にうれしさがとどまっている」という与格構文。与格という言葉自体初めて知ったけど、これが今の私にとってしっくりくる文体なのだ。あくまで人間はやってくるものの「うつわ」である、という表しかたを気に入った。なんか私のいきなりくる希死念慮もそのように扱えばよいのではないだろうかって思った。私に私で無いものが漂う。國分さんの中動態の世界も読んでみたいし、中島さんの思いがけず利他も読んでみたい。